「可愛くて得だね」という呪い

今回は著者がフェミニストになったきっかけについて、
ちょっと個人的な話をしようとおもいます。
 
私は美人と言われることは滅多にないけれど、
可愛いね、と言われることは、時折あります。
 
これは実は重要な違いで、
人とは純粋に、顔や身体が造形的に美しい人のことをいうけれど、
可愛いというのは、見た目はまずまずであっても、人格や行動、話し方をひっくるめると
まあなんとなく、守ってあげたくなるような愛嬌がある、ということです。
 
 
総じて、「可愛いね」と言われたら、大抵の人は褒め言葉と受け取るでしょう。
私だってうれしいです。
では、「あなたは可愛くて得だね」はどうでしょう。
 
私は、美人ではないけれど、
「可愛くて得だね」と言われることは、それなりにありました。
 
...先輩にアドバイス頼んだら、迷惑かな。「大丈夫でしょ、あなた可愛いから」
...あの先生、厳しいよね。「でもいいよね、あなたは可愛いから怒られない」
 
「可愛くて得だね」というメッセージを、私は知らず識らずのうちに、内面化していきました。
...私がうまくやれているのは、”可愛い”とおもってもらえたから。
 
相手が褒め言葉のつもりで言ってくれたその言葉が、実は私の自意識を深く蝕んでいたことに気づいたのは、
ずっと後になってからのことです。
 
私は長い間、それを単に褒め言葉として受け取って来たし、歪んだ特権意識さえも持っていた気がします。
その頃の私は、日本社会に根深く残る男女差別の実態に、全く無関心でした。
私はいまのままの社会の中で、むしろ得をして生きているとさえ、どこかで思っていたのかもしれません。
 
でも転機がありました。
それは、学外のある女性の先輩と話していたときのことです。
「あなたは可愛くて得ね。あの先生ともすごく親しそうだし。どうせいい推薦状、書いてもらえたんでしょ。」
 
私はその前の年に、ある奨学金を獲得して希望の大学院に進学しました。
その先輩は、「どうしてあなたが」とでも言いたげに、こう言いました。
「可愛くて得ね。」
 
 
その瞬間、目の前の霧が晴れるように、ずっともやもやとしてきた苦しさの所以が、わかった気がしました。
 
私は、その先生に推薦状を書いてもらったことはなかったし、
実のところ、訳あってほとんど孤立無援の中で、留学準備をしました。
 
だからその先輩に言われたことは全く的外れだったのですが、
何を達成しても、「可愛いから」と片付けられてしまうこと、
なにより自分も、その視線を部分的に内面化していたことに、気が付いたのです。
 
「可愛くて得ね」という言葉は、私に歪んだ特権意識を植え付けてきた一方で、
"可愛い”とおもってもらえなかったら、私はいまのようにうまくやれないんじゃないか、という不安を抱かせてきました。
 
ふりかえれば私はいつも自信がありませんでした。
たとえ先生に目をかけられても、先輩に励まされても、自信がなかった。
振り向けばいつも誰かがそこで、「可愛くて得ね」と囁いていました。
 
でもどうでしょう。
私は実際、精いっぱい課題に取り組んできたし、
人が嫌がる仕事も、進んでやってきました。
 先生や先輩に目をかけられる理由が、全くないわけでもないにもかかわらず、
「可愛くて得ね」という声は、
私が自分の手で築いてきた自信の基盤を、砂上の楼閣のように錯覚させ、
自分の力では生き残れないんじゃないかという幻想の中に、私を閉じ込めてきました。
 
「可愛くて得だね」という言葉はやがて、「"可愛い"から、やっていけている」という呪いとなって、
ある種の特権意識と複雑に絡み合った劣等感を形成していきます。
 
冒頭の話に戻ると、「可愛い」というのは、「美人」とは全く違います。
「可愛い」というのは、子犬や小さい子供のように、異性に愛でられること。
決して脅威にならない、あくまで「守ってあげたくなるような」愛嬌の持ち主であることを意味します。
 
生意気な口を聞かず、従順であること。相手の優位に、立たないこと。
“可愛く"いるためには、ある種の行動規範を守らなければなりません。
 
それがどんなに不自由なことだったか、
そして、「”可愛い”から、得をしている」という意識がどんなに理不尽で、苦しかったか、
私はその先輩の言葉を聞いて、はじめて気が付きました。
 
ちなみに、先輩が言及したその先生は、確かに私に目をかけてくれました。
私と、私の同級生の男の子を、特別可愛がって、応援してくれていました。
研究分野が近いからです。
 
私はその男の子が「イケメンだから可愛がられている」と言われているのを聞いたことがありません。
人はいつだって、こう言います。彼が目をかけられているのは、「優秀だから」
でも、私がそうだったように、女学生が目をかけられていれば、多くの人がこういうのです。
「"可愛い"から、得ね。」
 
 
「可愛いから得だね」と言われるすべての女性に。
フェミニズムは、あなたの敵ではありません。
あなたがどんなに苦しいか、ちゃんと分かるから。
 
フェミニズムというと、
「ブスの僻みでしょ」と偏見をもつ人がいまだに多くいます。
男性に可愛がられる女性とは、無縁の思想だと思っている人もいるかもしれない。
 
でもそうじゃない。
 
たとえあなたが"可愛い"人でも、あなたが得をして生きているとは限らない。
 
あなたがここまでこられたのは、”可愛い"からだけじゃない。
あなたが自分の足で歩んできたからです。
 
男性に守られなくても、きっとやっていけるって、
あなたがちゃんと自分を信じることのできる社会になるように、願っています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

のぶみ炎上「嫌なら聞かなければいい」で済ませてはいけない理由

最近、絵本作家のぶみさんが作詞した「あたしおかあさんだから」という曲が大きな話題になりました。
 
一人暮らししてたの おかあさんになるまえ
ヒールはいて、ネイルして
立派に働けるって 強がってた
今は爪切るわ 子どもと遊ぶため
走れる服着るの パートいくから
あたし おかあさんだから
 
あたしおかあさんだから
眠いまま朝5時に起きるの
あたし おかあさんだから
大好きなおかずあげるの
あたしおかあさんだから
新幹線の名前覚えるの
あたし おかあさんだから
私よりあなたのことばかり…
 
母親になる前は自分中心の生活を謳歌していた女性が、
いまは自分を犠牲にして、子供のために身を捧げている様子が描かれていきます。
 
幾度も繰り返される「あたし おかあさんだから」というフレーズが
あらゆる疑問を打ち消して、
「母親だからこれでいいの」というぎりぎりの肯定感を、上塗りしていきます。
 
この曲はHuluのオリジナル子供番組で
NHKの「うたのおにいさん」だいすけおにいさんが歌い、
当初は子育て中のおかあさんの間で話題になったようです。
 
「背中を押されている気がした」と肯定的に捉える声もあった一方で、
母親の自己犠牲を称揚する内容であること、
そして子供に聞かせることを意図した曲であることから、
「母親なら自分を犠牲にして当たり前だと言われているようだ」
「子供にこんな母親像を刷り込みたくない」
など、多くの批判の声が寄せられました。
 
twitter上で「#あたしおかあさんだけど」と、
女性たちが自分なりの母親像を拡散するなど、論争がユニークな様相を見せていく中、
「のぶみ炎上」問題は、インターネットなどで大きく取り上げられていきました。
 
 
しかし論争が幅広い人たちを巻き込んでいく中で、
しばしば見聞きするようになったコメントがあります。
「嫌なら、聞かなければいいのに」
 
こうした声は、歌い手である「だいすけお兄さん」が謝罪を表明すると、
ますます大きくなっていきました。
「なんでも謝罪を求める風潮は、いかがなものか」
「嫌なら、聞かなければいいのに」
 
「嫌なら聞かなければいいい」「嫌なら見なければいい」という声が聞かれたのは、
今回が初めてではありません。
ゲイらしきキャラクターを面白おかしく揶揄して見せた、とんねるずの「保毛尾田保毛男」問題、
黒塗りメイクで黒人有名俳優に扮した、ダウンタウンの「ガキ使黒塗り」問題…
「多くの人が楽しめているなら、不愉快だと思う人は見なければいいじゃない」
ネット空間にはそんな声が充満し、
ひいては有名芸能人やコメンテーターが、そうした意見を公に発信していました。
 
でも私は異を唱えたい。
「こんな歌は聞きたくない」「こんなネタは見たくない」という意見は、
問題の渦中にある人物を中傷したり、彼らの足をひっぱるためではなく、
支配的な社会の風潮や、エンターテメントのあり方を前向きに変えていく、
プラスの力を持っているからです。
 
のぶみの歌詞内容に、励まされた人もいるとおもう。
でも、のぶみが子供たちに聞かせようと作ったその歌は、
女性が母親になることで否応なく自己犠牲を強いられてきた歴史や、
今もなおそれを当然のこととして、女性を追い詰めている社会の風潮と、切り離すことはできません。
 
保毛尾田保毛男問題や、ガキ使黒塗り問題も同じです。
ネタを面白く見た人もいるとおもう。
一緒に楽しめるゲイの人も、アフリカ系の人も、いるとおもう。
でもテレビで多くの人の目に触れたそのネタは、
同性愛者が揶揄されてきた歴史や
黒塗りメイクで黒人を差別的に表現してきた歴史*1と、
切り離すことはできないのです。
 
そうした意味で、「あたしおかあさんだから」の炎上、
保毛尾田保毛男」の炎上、「ガキ使黒塗り」の炎上は、
「この芸能人の箸の持ち方がなっていない」
「この女性タレントの自撮りが盛りすぎだ」
などといった「炎上」と、一緒にしてはいけない性格をもっています。
 
こうした作品に対する炎上は、表現者を謝罪させたいから起きるのではありません。
世の中の支配的風潮を、変えていくために起きるのです。
 
今回の件で、謝罪を余儀なくされたのぶみやだいすけおにいさんは、
個人的にも辛いおもいをしたとおもいます。
 
でも今回の問題がきっかけで、暗黙裡に母親の自己犠牲を当然としてきた社会の風潮に光が当てられたことも事実です。
また「#あたしおかあさんだけど」ブームをとおして、
多様な母親像が発信されたことも、注目に値します。
 
作品は、歌でもお笑いでも、作り手から離れたところで、受け手や社会に影響を与えていくものです。
作品に疑問を投げかける声は、作り手への攻撃に終始するのではありません。
論争を通して、世の中のあり方が議論されることに、重要な意味があるのです。
 
だからこそ一連の炎上を「嫌なら聞かなければいい」「嫌なら見なければいい」で片付けてはいけないと、私は強くおもいます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

*1:黒塗りメイクが差別的表現にあたらないとおもうという人は、ミンストレルショーの歴史でも調べてください。

カサネテクと女の子のエンパワメント

数ヶ月前、あるスイーツのCMが日本で大きな反響をよびました。

 

カサネ..カサネカサネテク...という不思議なメロディに乗って、

女の子たちが"無敵"の合コンテクニックを披露するCMです。

 

一緒に参加する友達を牽制しつつ、

「できる女のサシスセソ」を華麗に披露するヒロインたちに、

私たちは目を奪われます。

 

さ「さすが〜!」

し「知らなかった〜!」

す「すご〜い!」

せ「センスいいですね〜!」

そ「そうなんだ〜!」

 

あの手この手...と凄腕テクニックを重ねていく彼女たちは、

いとも簡単に男性陣を手玉にとっていきます。

お財布出してもだ・し・た・だ・け 

彼女たちは、まさに思い通りに男性たちを操ることができるのです。

 

このCMの面白さは、

計算高く男性の気を惹く女の子たちを、あくまでコミカルに描くその手法であり、

いたいけに振舞いつつも、見事に男性たちを手玉にとる女の子たちの技の痛快さです。

 

ところがこのCMには、

ヒロインがふと夜の街で立ち止まり、涙を拭うシーンがあります。

 

強くなきゃ戦えない

技がなきゃ戦えない

泣きたい夜もあるけど、掴みたい幸せがあるから

 

そうして彼女は「技」のブラッシュアップに励むのです。

このシーンを見ていると、不思議とやりきれない、悲しい気持ちになります。

彼女たちの「強さ」「技」そして「掴みたい幸せ」とは一体何でしょうか。

 

日本で、ジェンダーギャップについて話をすると、必ず

「でも、女性は女性だってことで得をしているじゃない」という人がいます。

男性だけではありません。女性にも言われます。

 

女性は自分の可愛らしさやセックスアピールを武器に、

人を思い通りに操って得をすることができる。

 

彼、彼女の脳裏にあるのは、まさにこのCMで行われているような駆け引きでしょう。

 

でも私が不安に思うのは、

このCMの女の子たちは本当に得をしているのか、ということです。

 

「できる女のサシスセソ」を見返してみてください。

これらは全て、自分の無知をアピールし、男性の優位を印象付ける言葉です。

 

後半で登場する「アイウエオ」は一層、女の子の無力さを補強しています。

 

あ「あげな〜い」

い「いらな〜い」

う「うごけな〜い」

え「えらべな〜い」

お「おせな〜い」

 

言葉だけではありません。

胸をさりげなくさらけ出し、素足を男性の足に絡ませ、

女性たちは自らを無防備で性的な存在として売り出しています。

 

幼稚で無知で、無防備で性的であること

そうした価値を積極的に内面化することで、彼女たちはモテ、

「幸せ」を掴む道を切り開くことができるのです。

 

彼女たちが狡猾でたくましいことに依存はありませんが、

女の子たちがこのような仕方で、「幸せ」になることを目指す社会が、

男女平等であるようには、私には思えません。

 

彼女たちが、自らを「可愛がられる存在」として位置付けることで

個人的にうまく立ち回れたからといって、

女性が男性よりも得をしている、ということにはなりません。

 

彼女たちのような女性を「計算高い」「腹黒い」といって批判することでは

解決できない、もっと構造的な問題がその背景に潜んでいるように、私には思えます。

 

成人女性を対等な個人としてではなく、

あくまで「可愛」がろうとする日本社会は、

女性にとってだけでなく、(カサネテクに翻弄される)男性にとっても、

生きづらいのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

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国際男性デーに、フェミニズムについておもう

11月19日は「世界国際男性デー」

主催者団体のホームページに掲げられている「国際男性デー6つの支柱」からは、

現代社会で男性が感じている生きづらさ、苦しさが垣間見られるようです。

 

1. 肯定的な規範的男性像を促進すること

2. 家庭や育児など、社会への男性の積極的参与を是認すること

3. 男性の健康と幸福に焦点を当てること

4. 男性に対する社会的、法的差別に光を当てること

5. ジェンダー関係を改善し男女平等を促進すること

6. 安全で、誰もが目一杯可能性を実現できるような、より良い社会を作っていくこと

 

(一部簡略化しています。)

 

そこからは、男性に押し付けられる「男らしさ」という社会的規範が、

家族と時間を過ごすこと、自らの身体的・精神的健康をいたわること、

自分らしくのびのびと生きることを、難しくしている現実が見て取れるようです。

 

 

一方で国際男性デー当日には、ツイッターやインターネット上に、

たくさんの「女性の権利」に対する攻撃が書き込まれました。

 

「レディースデー」など、女性が受けていると思われる「特権」への攻撃

いわゆる「ハニートラップ」や「痴漢冤罪被害」の恐怖、

社会に横行しているという様々な「女尊男卑」への抗議...

 

これらの訴えに共通するのは、

社会が女性差別にばかり目を向けて、女性を偏重してきた、という不満であり、

「男女平等」という理念が男性を不当に抑圧し、不自由にしてきた、という感覚です。

 

果たしてそれは本当でしょうか。

 

 

社会学者のマイケル・キンメルは、2015年のTEDプレゼンテーションにおいて、

以下のような研究結果を報告しています。

 

一般に、ジェンダーギャップが少ない国において、国民の幸福度は高く

ジェンダーギャップの少ない企業において、被雇用者の満足度は高く離職率が低い。

 

さらに、男性が家事や育児に参画している家庭では、

夫も妻も結婚生活への満足度が高く、共により健康であること、

子供がより健康で、よりよい成績をおさめる傾向にあること、などが明らかにされています。

 

このように、男女差別の是正は、男性と女性のゼロサムゲームではありません。

男性が健康で幸せであるためにも、男女平等は欠かせないのです。

 

ところで、インターネットに書き込まれていた最も多くの男性の不満は、

「僕たちは全員、セクハラをするわけじゃない」

「全員が痴漢をするわけじゃない。性犯罪に手を染めるわけじゃない」

こうした訴えでした。

 

その通りです。

男性だから、という理由でセクシスト扱いされるのは不当です。

 

一方で、ある統計によると、日本では約7割の女性が性的被害にあっています。

性犯罪やDV、ストーカー被害者の約9割が女性です。

 

こうしたなか、女性を黙らせても、性被害はなくなりません。

それはすなわち、男性への「偏見」もなくならないことを意味します。

男性への不信を根絶し、「肯定的な規範的男性像を促進」するためにも、

いま確かに存在する男女差別を是正するために、男性の協力が不可欠なのです。

 

男性が、男性であることを理由に苦しむことのないように、

ジェンダー関係が改善され、男女平等が促進されることを切に願います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「逃げ恥」ゆりちゃんの新しさとは何だったか

ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』が大ブームを引き起こしてから早、約1年。

 

新垣結衣ちゃん演じるみくりちゃん、

星野源くん演じる平匡さん、

そして、2人を囲む様々な登場人物が繰り広げる細やかな人間模様に、

私を含めたくさんの人が魅了されました。

 

なかでも、石田ゆり子さん演じる、"アラフィフ"シングル、ゆりちゃんの可愛さと切なさは、多くの人の心を揺さぶりました。

 

ゆりちゃんは大手化粧品会社で「部長代理」として活躍するキャリアウーマン。

明るく、有能で部下にも頼られているゆりちゃんですが、

女性(なかでも未婚女性)に向けられる様々な偏見やプレッシャーと、

日常的に闘いながら生きています。

 

女性が7割の会社で管理職はたったの1割、

ポストはあいているのに部長にはなれない部長代理。

 

美人なのにシングルの部長代理ゆりちゃんは、周囲にとって常に好奇の対象で

部下を厳しく指導すればパワハラ

男性部下と交わしたちょっとした一言がきっかけでセクハラ、

さまざまな噂や誤解が生まれてしまいます。

 

それでもいつもはサバサバしているゆりちゃんが、たった一度涙を見せて

次のように語るシーンに、心打たれた方はたくさんいるとおもいます。

 

...あの人が頑張ってるなら、自分ももう少しやれるって。

今ひとりでいる子や、ひとりで生きるのが怖いっていう若い女の子達が、

ほらあの人がいるじゃない。結構楽しそうよ。って思えたら少しは安心できるでしょ。

だからわたしはかっこよく生きなきゃって思うのよ。

 

 

男女雇用機会均等法の施行から約30年。

男性優位の社会で戦う日本のキャリアウーマンの姿は

数々のドラマや映画で描かれてきました。

 

それでもゆりちゃんというキャラクターが、

これほど強烈に私たちの心を揺さぶったのはなぜでしょうか。

 

私は、「独身キャリアウーマン」という役を、

可憐なイメージの強い、石田ゆり子さんが演じていることに、

その秘密があるのではないかとおもいます。

 

「社会の荒波と闘い、強く生きるキャリアウーマン」というキャラクターは、

すでに、どこか定型化していて、

例えていうなら、女性差別やセクハラが露骨に横行するろくでもない会社で、

マニッシュでハンサムな米倉涼子さん、

凛としてカッコイイ篠原涼子さんなどが演じる女性が

孤軍奮闘するという、ストーリーがテンプレートではなかったでしょうか。

 

男なんてダメ。

男なんていなくても大丈夫。

私は有能で、強いの。

 

「キャリアウーマン」というキャラクターが体現するのは、そんなメッセージでした。

そしてそこで描かれる男性や会社は、本当に「ダメ」でどうしようもないのです。

 

でも多くの女性にとって、そんな設定は、一体どこまでリアリティがあるでしょうか。

 

ゆりちゃんというキャラクターの切なさは、

彼女は別に、縁があったら結婚してもよかった、

シングルでいるつもりなんてなかった、というところ。

 

そして、彼女を取り巻く偏見や差別が、とても微妙で、構造的で、

名指しできる「悪者」がいない(でも確かに存在する)というところ。

 

それは目に見えない「呪い」となり、

お金もキャリア(部長"代理"だけど)も手に入れて、何不自由ないはずの彼女の人生に、

濃い影を落としているのです。

 

私は、いまの日本のキャリアウーマンが抱えている苦悩は、

多くの場合、こういう形のものだとおもう。

 

面と向かって、差別的な発言をされたり、露骨なセクハラが横行していたり、

明示的に「女だから」という理由で、拒絶されることもない。

 

でも、ついつい私たち自身が内面化してしまう「結婚」や「家庭」への憧れ、

女性の私生活や男性関係に関する"悪気のない"噂話やジョーク、

そして誰も「あなたが女性だから」とは言わない、様々な障壁...

 

そんな「見えない」形をとって根強い差別や偏見が、いまも女性を束縛しています。

 

制度的には平等だから、明示的な差別はもう無いから、

日本は平等、この会社は平等。

それでも辛い、苦しいって思ってしまうのは、私が弱いんだと、

多くの女性が思わされてしまう現実があります。

 

「差別だ!」と声高に叫ぶわけでもない、

でも苦しい、悔しい、

そっと涙するゆりちゃんの苦悩に、多くの人が共感したのは、

そんな背景があるからだとおもいます。

 

「見えない」形をとった差別や偏見に苦しむひとりひとりの女性が、

自分を責めることなく、声をあげることができるように、

理解が進むことを願っています。